令和7年(2025)3月29日付け
『豊川稲荷に行ったときに、貧乏神をおはらいする、やり方と禊ぎはらいの祝詞を教えて下さい。』
(´ヘ`;) 年度の初めでもあり、粛然と格調高く始めようとしてたら、こんなん(困難)が届いたから大へ~ん!でもなかなか高級な質問です。
(゜◇゜)☆\(^^;)弱音を吐くなぁ~!!
m(n_o)mエェー大幅に予定を変更しまして、まず貧乏神というのから説明しなければなりませんネ。
「人を貧乏にさせると信じられている神。小さく、痩せこけて色青ざめ、手に破れた渋団扇を持ち、悲しそうに立つ」と広辞苑(三版)には出てますが、
(@□@;)☆\(^^;)どうも変だと思った。おまえカァー!
q -.- p;…私古道具は多少ありますが、破れた渋団扇【柿渋を表面に厚く塗った赤黒いびんぼったいウチワ】持っておりません。
早速、従五位高島呑象先師門人、柄澤照覚先達の資料から引っ張り出します。
「文政四年辛巳(1821)の夏のころ江戸番町なる四五百石ばかりの武家の用人【会社の総務部長経理部長のような人】が、主人の用にて下総の知行所(大名から家臣が頂いた土地)へ赴くことあり江戸を立ちて草加の宿より一人の法師に逢えり。年は40あまりなるべし面(かお)は青く又黒く眼深くして世に言う金壷(落ち込んで丸い目)めきたるがあご尖り、いと痩せたり。身には溝鼠(どぶねずみ)染めという栲(たく/こうぞからつくった布)の単衣(ひとえ)をつけ、頭には白菅の笠を戴き首には頭陀袋(ずだぶくろ)をかけたり……。
後に着き先に立ちて行くほどに物いふこともしばしばなり、さて和僧はどこより何地へ赴きたもうと問うに法師答えて吾は、番町の某(なにがし)の屋敷より越谷へ行くという。用人聞きて深くあやしみ、吾はその屋敷の用人なり吾が見知らぬ人の吾が屋敷に居ることがあろうか。出家が空言をいわれるとあざ笑えば法師もあざ笑いて、どうして和殿(※用人のこと)をあざむくべき和殿が吾を見知らぬなり我れは世に言う貧乏神なり。
我れは、三代以前より和殿の主の屋敷に居れり。主の家には病み煩うもの常にたえず、先代両主は短命なりき。よろづにつきて幸い無く貧窮すでに世を重ねて家禄はあれども無きがごとし。家の亡びざりしは、先祖の遺徳によれるのみ。昔和殿の主家には、近頃はかくかくしかじかのこと有りと人に知らさぬ秘事を示すに、用人いたく驚き恐れて嘆息のほかなく、法師は之を見て、そう畏れることにはあらず。和殿の主の世に至りて、いよいよ家禄や先祖が作ったお徳は尽きたれば、我れは他所へ移るなり。今よりして和殿の主人は、終わる家なり。と言うに用人心落ちて、しからば和僧はいず方へ移らせたまうと問う。法師答えて我が行くところは、和殿が主人の近隣なる何某の屋敷に居らん。その移転の一両日いささかの暇(いとま)あれば越谷あたりに相知るものを訪れんと。
見よ見よ今より彼の屋敷は、よろづの事に幸無くなりて遂に貧窮至極せんこと和殿の主人のごとし。...」(貧乏神の霊異)と。
(゜◇゜)☆\(^^;)ドーすりゃいんだぁ~!!
『..およそ人の盛衰は時運に係るものながら、主人の心術行状により、業(生業)を勤めて奢ることなく朝早くおきて陽気を迎え埃(ほこり)を払いて陰気を送らば窮鬼も憑(よ)る事なかるべし...』(同前)
(@□@;)☆\(^^;)自分出来んのカァー!
q -.- p;…早寝早起きとか整理整頓掃除とか日拝して日光を体内に吸い込むとか昔は基本で押さえられていたのでしょうが、現代は基本が実行しがたくなっているようです。やってるつもりなんですが。貧乏神って、自分の普段の心がけ態度が呼び込んでしまうのですナ。マイナスの“神通”ですネ。
(N_O;)☆\(^^;)えらソーに!
p-.-q;…参拝の節には、天津祝詞は当然二三度は奏上するものでしょう。そして御祭神の御開運・ご活躍をいのります。同時に、自分の生活態度にいたらん点があれば改善することを神前に誓えば、当然“神通”するということ。
(@□@;)☆\(^^;)こっちは“心痛”ダー!
貧乏神つづく